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アラビア語辞書Hans Wehrの話

投稿日:2020年12月19日



皆様こんにちは。

今日はアラビア語辞書に関する記事を書きたいと思います。

おそらくアラビア語を学んでいる方であれば、ほとんどの方が持っているか、少なくとも購入を検討したことくらいはあるのではないかという、あの緑色の分厚い辞書の話題です。

タイトル画像にもなっていますが(ボロボロですみません)、この辞書はドイツ人のアラビア語学者Hans Wehr氏によって編纂された辞書なので、アラビア語学習者の間では「ハンスヴェーア」として親しまれています。

かく言う私自身も、アラビア語を学び始めた当初にこの辞書を購入しました。当時、8000円くらいして学生には痛い出費でしたが、初代の辞書はお茶をこぼしてボロボロになってしまったので、今使っているのは2代目です。

今となってはオンラインで無料版も利用できるので、わざわざ購入しないという方もいるかもしれませんが、少なくとも私のアラビア語学習人生においては、もっとも使用している辞書ですし、今だにほぼ毎日と言ってもいいくらいお世話になっている辞書と言えます。

さて、この辞書に関する記事を読んで、Twitterに投稿してみたところ、思った以上に反応がありましたので、記事でもう少し詳しく書くことにしました。


ナチスの資金提供で始まった辞書編纂プロジェクト


なんと意外なことに、この辞書はそもそもナチス政権によって、アドルフ・ヒトラーの著書「我が闘争」を翻訳するために開始されたプロジェクトだったということです。

Hans Wehr氏は1909年、ドイツ生まれのアラビア語学者です。

1940年に「国家社会主義ドイツ労働者党」(ナチス・ドイツ)に入党し、「ドイツが英仏に対抗するためにはアラブ諸国と同盟を結ぶべきだ」といった主旨の論文を書きます。これを受け、ナチス政権はハンス・ヴェーア氏のアラビア語辞書編纂プロジェクトに資金提供しました。

ただし、最終的に辞書が世に出たのは1952年で、第二次世界大戦後のことでした。

その後、米国人のドイツ語学者であるJ. M. コーワン氏によって英語版が出版されます。私も含め、多くの日本人のアラビア語学習者が使用しているのは、こちらの英語版だと思われます。

コーワン氏の経歴を見る限り、ドイツ語の専門家ではあるのですが、アラビア語の専門家というわけではないようです。この点は、この辞書に対する批判の一つとしてよく耳にします。

アウシュヴィッツで殺されたユダヤ人研究者


ナチス・ドイツのプロジェクトだったという事実だけでも、個人的には十分意外だったのですが、関連記事を読んでいてさらに衝撃だったのは、この辞書の編纂に貢献したとされるドイツ人でユダヤ人でもあるアラビア語研究者が、第二次大戦中にアウシュヴィッツ強制収容所で殺害されていたという点でした。

その女性研究者の名前は、Hedwig Klein博士(1911~1942)です。

ハンブルグ大学でイスラーム学、セム語学、言語学などを学び、博士号を取得しました。

ナチスによるユダヤ人迫害が強まる中、知人の助けを得てインドへの亡命を試みたのですが、1939年、第二次世界大戦勃発によりうまくいかず、ドイツに戻らざるをえなくなりました。

その後、ハンスヴェーア氏のアラビア語辞書編纂プロジェクトにスタッフとして協力することになり、現代アラビア語文学を分析して単語の意味を紙に記入しては編集部に送るという作業を繰り返しました。彼女の仕事のクオリティの高さを同辞書の編集スタッフ達は讃えていたようです。

1941年12月、彼女は辞書編纂の仕事に従事していたおかげで、一度は強制収容所への送還を免れましたが、残念ながら、1942年7月、アウシュヴィッツに強制送還され、殺されてしまいました。

なお、彼女の姉、母親、祖母も皆、ナチスドイツによって殺されました。

米国の大学で議論を引き起こす


私が読んだ記事によれば、米国のミネソタ大学では従来、全アラビア語の授業でこの辞書の購入を必須としていましたが、上記の背景を知ってからはお勧め書籍リストに掲載するにとどめ、購入についてはあくまで学生の選択に委ねるようになったとのことです。

また、米国の学生達が「倫理的に問題なのでこの辞書を買いたくないから、図書館から借りている」とか「無料のPDF版を使用している」などと書いてありました。

ちなみに「ナチスが作った辞書だから、この辞書を使うのをやめようよ」と言いたくて、今回、この記事を書いたわけではありません。

もちろん、嫌だと思う人は使わなければいいと思いますし、それは個人の自由です。ただ、結局使うのであれば無料版であろうと、そこになにか違いはあるのかなと個人的には思います。

ハンスヴェーア氏が元ナチス党員でも、世界中のアラビア語学習者がこの辞書を使って学んだという事実、また、この辞書が世界中のアラビア語研究に貢献をした事実は変わらないと思います。

別に今、ハンスヴェーアの辞書を買うことがナチスを支持するということになるわけではないと思うのですが・・・。

とりあえず、私自身は今後もこの辞書を使い続けると思います。もちろん、もっと使いやすい他の辞書が見つかればその時はわかりませんが、あまりにも使い慣れてしまったので今更なぁ・・・という程度のことです。

ただ、ミネソタ大学のアラビア語の先生が指摘されているように、この辞書が「ハンスヴェーア」と呼ばれ、Hedwig Klein博士をはじめとした協力者達を無視して彼一人の功績であるかのように認識されていることは確かに倫理的に問題なのかなと思いました。

ですので、こういった事実は忘れないでいたいし、もっと多くの人にも知ってほしいなと思います。

なお、Hedwig Klein博士が具体的に辞書全体のどの程度の分量を担当したのか、ということについては詳しい情報は見つけられませんでした。私はドイツ語は読めないのですが、もしかしたらドイツ語や英語以外の他の言語でもっと詳しい情報があるかもしれません。

それでは長くなってしまいましたが今日はこの辺で。

読んでいただいてありがとうございました。

マアッサラーマ。

【参考記事】

https://apnews.com/article/83744fe4f2de463c9b242fd4b0886349

https://www.jpost.com/international/nazi-authored-arabic-english-dictionary-causes-stir-at-university-of-minn-605631

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